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Fsの歴史 (東映時代)
bQ

“駒沢の暴れん坊”の由来は選手に制限など何もない、悪く言
えば「やりたい放題」で、門限など勿論無い、二日酔いで酒臭い
儘の状態でホームランを打つ!審判に食ってかかる相手選手に
文句を付ける等々で 反面それに人気があったりしてた。

水原は先ず、ユニホームと移動には一等車(今のグリーン車)に
変えたりして選手に世間から注目されるような所から替え始めた

選手に対しても厳しい対処を始めた。今まで選手の自主性に任
せていた面を水原は管理を始めたのである。先ず山本八郎など
チームの和を乱す理由でスタメンから外したり、張本に対しても途
中守備交代を告げて張本試合途中にも拘わらず寮に帰り大暴れ

これらの件も結局、試合に関しては監督に絶対服従の意志を暗
に選手全体に示し、両選手から謝罪させているのである。

 1961年監督就任で「初出勤」水原監督 53番の右上

ここで、山本八郎について、少し触れてみよう。山本八郎は普段はとても優しく、気さくな
人柄で誰からも愛されていた。
が、試合になるとファイトの固まりになっしまい、暴力行為で2度も無期限出場停止処分を
受けた選手は、ちょっとそこらには見あたらない。


1回目は58/5/10南海戦の内野安打を2回続けてアウトと宣告され、この2回目のアウト
コールに爆発。

2回目は59/5/30近鉄戦で本塁クロスプレーに怒った相手捕手に対し振り払いざま1発。
前回の審判に対するのよりは軽い処分と思われたが再犯のレッテルの為、又また退場。
無期限出場停止となった。

59/5/30 2度目の処分を受ける騒動の瞬間(審判の蔭になっている捕手に一発)

少しずつではあったが監督の采配が選手に浸透し始め、張本はこの年初めて首位打者を獲得するまでになった。
 そうやって水原は弱小球団に染み付いた負け癖や磊落的構図体質を変えて、戦力は前年変わらないにも拘わらず
 エースの土橋や毒島、張本を中心に優勝へ大きく近づいたのであった。

1961年の水原監督 駒沢球場




この優勝を争う対南海戦、あの、ガラガラだった駒沢球場
超満員で南海ペンチサイドに東映フアン大挙押し寄せ
南海ファンと小競り合いの一幕もあった。

しかし、ファンの声援もむなしくこの年は、全球団には勝ち
越したものの惜しくもその南海に覇権を奪われてしまった

土橋正幸56年〜67年フライヤーズ一筋 通算162勝はFsでは破られていない



毒島章一もフライヤーズ一筋18年、俊足を生かして三塁打
盗塁で大活躍。打率は通算 ,381の好成績を残している
 

1961年(昭和36年)チーム名 東映フライヤーズ 監督 水原 茂
   成績 2位 83勝52敗5分 勝率 .615
順位 チーム 試合数 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差
優勝 南海 140 85 49 ,634   -
2位 東映 140 83 52 ,615  2.5
3位 西鉄 140 81 56 ,591  5.5
4位 大毎 140 72 66 ,522 15.0
5位 阪急 140 53 84 ,387 33.5
6位 近鉄 140 36 103 ,259 51.5
1961年(昭和36年)東映フライヤーズは
全球団に勝ち越したが、最後で南海に
優勝を持って行かれ悔しい思いをした
大川オーナーと水原監督は思い切った
戦力補強を行う事となった。
                  
   

 少しずつではあったが監督の采配が選手に浸透し始め、張本はこの年初めて首位打者を獲得するまでになった。
 そうやって水原は弱小球団に染み付いた負け癖や磊落的構図体質を変えて、戦力は前年変わらないにも拘わらず
 エースの土橋や毒島、張本を中心に優勝へ大きく近づいたのであった。

  先ずは、この年の春の選抜高校野球大会で浪商を優勝に導いた尾崎行雄を獲得する案である。尾崎はこの年
 高2だったが東映側の猛烈なアプローチで入団が決まった。(今は規約上卒業するか又は、中退後1年以上経過
 しないと入団出来ない)他の球団も彼に早くからアタックしていたのだが、山本八郎、張本など浪商コンビや監督の
 熱心な勧めで入団したと回顧している。


61年張本勲(駒沢球場)後ろの
 ダックアウト木造トタン葺き

異名・安打製造機水平打法で左右どちらでも
ヒットを放つ前人未踏の3000本安打達成
62年尾崎行雄(神宮球場)デビュー
登板49( 20勝9敗 防御率2.42 )


「怪童」の速球デビューで豪速球がうなりを生じ
ホップする球に打者はきりきり舞い
67年東映入団の大杉勝男( 92年に肝臓ガンで急逝 )

月に向かって打ての教えを守り本塁打の量産、山本八と
似たような性格で、普段はおとなしく好青年だが火がつくと
ブレーキが効かなくなるタイプ、1塁手としてのエラーで
得点されリードを許し、味方ファンにやじられて試合中にも
かかわらずベンチ脇の金網よじ登る迫力にハラハラ
試合における乱闘、武勇伝限りなし…

その他に昭和35年秋の早慶戦で早大を優勝へ導いた安藤元博と、後の二遊間コンビで有名になった立教の
 青野と芝工の岩下を入団させる辣腕を演じた。

  大川博で有名な言葉がある「口は出さぬが、金は出す」マスコミでもすっかりその言葉が引用されるようになり
 口うるさい一部では「口は出すが金は出さない」と皮肉る向きもあったが、実際は優勝を逃がした悔しさからか大盤
 振る舞いを見せたともいえる。

  またこの1961年(昭和36年)を最後に本拠地の駒沢球場がオリンピック開催のために取り壊されることになり
 本拠地をどこにするかで、議論沸騰したが結局神宮球場を本拠地としてスタートする事になった。

この年の9月には、球団最多連勝の11連勝もあった。(2引き分けを挟んで)

  62年(昭和37年)シリーズ開幕を神宮球場で土橋がエースとして登板で1勝、連戦の2日目は(その日はW ヘッター)
 尾崎等で連勝、続くゲームも連戦連勝の一ヶ月でなんと21勝3敗の独走街道まっしぐら。夏以降は南海に追い上げ
 られたが東映は見事初制覇となった。20勝の尾崎は新人王、張本がMVPに選ばれた。

1962年(昭和37年)  チーム名 東映フライヤーズ 監督 水原 茂
   成績 優勝 78勝52敗3分 勝率 .600
順位 チーム 試合数 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差
優勝 東映 133 78 52 ,600   -
2位 南海 133 73 57 ,562  5.0
3位 西鉄 136 62 68 ,477 16.0
4位 大毎 132 60 70 ,462 18.0
5位 阪急 131 60 70 ,462 18.0
6位 近鉄 131 57 73 ,438 21.0
スタメン
選手
西園寺 ,255 45
青 野 ,236 22
毒 島 ,288 12 77
張 本 ,333 31 99
吉田勝 ,306 18 79
山本八 ,232 27
岩 下 ,257 37
安藤順 ,208 22
選手 勝  敗 防率
尾 崎 20勝 9敗 2,42
土 橋 17勝14敗 2,32
久保田 16勝 7敗 2,12
安藤元 13勝 8敗 2,32
冨 永  8勝 6敗 2,39
久保田はタイトル
後に、巨人移籍の吉田勝豊が張本と共に
ベストナインに選ばれている


歴代ベストナインを選ぶとしたらの豪華版 
    もし、現在このメンバーで闘えば…
ポジション  名  前 在 籍 登板 完投 勝利 敗戦 セーブ 投球回数 奪三振 自責点 防御率
投  手 土橋正幸 55〜67年 455 134 162 135  −  25181/3 1562 744 2.66
投  手 米川泰夫 49〜68年 375 139 131 137  − 22102/3 1302 674 2.74
投  手 白木義一郎 46〜61年 233 160  97  96  −  1704  529 524 2.77
ポジション  名  前 在 籍 試合 得点 安打 本塁打 打点  盗 塁 四死球 三振  打率
捕  手 種茂雅之 61〜71年  945  158  548   21  181    18  130 209  ,236
一塁手 大杉勝男 65〜73年 1078  560 1063  264  729    24  424 582  ,287
二塁手 青野修三 62〜69年  826  318  710   39  209    31  237 314  ,260 
三塁手 西園寺昭夫 57〜66年 1172  579 1000  106  396   147  521 665  ,253
遊撃手 岩下光一 62〜71年  992  256  679   20  186    52  183 224  ,254
外野手 張本 勲 59〜73年 1897 1120 2184  385 1233   284 1017 575  ,324
外野手 毒島章一 64〜71年 2056  865 1977  106  688   191  665 683  ,277
外野手 大下 弘 46〜51年  679  378  784  130  446   104  318 305  ,311

1962年日本シリーズ
1962年(昭和37年)いよいよ日本シリーズ。迎え撃つは村山実、小山正明の両エース。
スタートは甲子園での連敗となったが、水原監督号令の元、引き分けをはさみ4連勝して初の日本一となった。
甲子園球場での胴上げで水原の一際細い体が2度3度宙に舞い、
表彰式では水原監督と各選手が涙涙の握手をし敵味方の観衆から盛大な拍手を貰った。 

10/21 対阪神第7回戦4勝2敗1分(甲子園)       日本シリーズ
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 - R
0 0 0 1 0 1 0 0 0 1 0 1 = 2
0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 = 1
投手/東:久保田-土橋    /東:土橋6試合2勝1敗
   /神:小山-村山    敗/神:村山試合勝敗
本塁打/東:西園寺
10/20 対阪神第6回戦3勝2敗1分(甲子園)       日本シリーズ
1 2 3 4 5 6 7 8 9 - R
1 2 0 1 2 0 0 1 0 = 7
1 0 0 0 1 2 0 0 0 = 4
投手/東:安藤元-橋詰-土橋    /東:安藤元3試合2勝
   /神:村山-太田-渡辺省-牧    敗/神:村山試合勝敗
本塁打/東:張本-/神:吉田
10/18 対阪神第5回戦2勝2敗1分(後楽園)       日本シリーズ
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 - R
2 0 0 0 0 0 2 0 0 0 0 = 4
3 0 0 1 0 0 0 0 0 0 2x = 6
投手/東:久保田-冨永-土橋    /東:土橋4試合1勝1敗
   /神:村山-渡辺省-石川緑-小山    敗/神:小山試合勝敗
本塁打/東:吉田勝
-岩下-/神:藤本
10/17 対阪神第4回戦1勝2敗1分(神宮)       日本シリーズ
1 2 3 4 5 6 7 8 9 - R
1 0 0 0 0 0 0 0 0 = 1
0 0 0 3 0 0 0 0 x = 3
投手/東:安藤元    /東:安藤元2試合1勝     安藤元 完投
   /神:小山-石川緑-牧    敗/神:小山2試合1敗
10/16 対阪神第3回戦0勝2敗1分(神宮)       日本シリーズ
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 - R
0 0 0 1 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 = 2
0 0 0 0 0 1 1 0 0 0 0 0 0 0 = 2
投手/東:久保田-石原-冨永-橋詰-安藤元-土橋    
   /神:渡辺省-村山-石川緑-太田-バッキー    
本塁打/東:毒島
10/14 対阪神第2回戦0勝2敗0分(甲子園)       日本シリーズ
1 2 3 4 5 6 7 8 9 - R
0 0 0 0 0 0 0 0 0 = 0
0 0 0 2 0 0 0 3 x = 5
投手/東:土橋-橋詰-冨永    /東:土橋1試合1敗
   /神:村山           勝/神:村山2試合2勝
本塁打/神:藤本                先発村山連投の完封
10/13 対阪神第1回戦0勝1敗0分(甲子園)       日本シリーズ
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 - R
0 0 5 0 0 0 0 0 0 0 = 5
0 1 4 0 0 0 0 0 0 1x = 6
投手/東:土橋-久保田-橋詰-尾崎    /映:尾崎1試合1敗
   /神:小山-村山            勝/神:]村山1試合1勝
本塁打/東:吉田勝

 東京駅に戻って来たナインを大観衆が取り囲み
歓迎した。そして、本拠地の神宮球場から銀座
数寄屋橋の東映本社経由で世田谷の大川博自宅
前まで優勝パレードを行ったのであった。
  
 大川博水原監督と共にオープンカーに乗り込み
背番号100を付けたユニホームを着込んで車上の
2人は何度も記者の求めに応じ握手を交わしたの
である。



 しかし、優勝はこの年を最後に再びこのパレードを行う事は出来なかった。
1963年(昭和38年) 3位
1964年(昭和39年) 3位
1965年(昭和40年) 2位
1966年(昭和41年) 3位
1967年(昭和42年) 3位
1968年(昭和43年) 6位
大杉勝男(67年入団)、白任天(62年入団)等で戦力的には人材が揃っていたが優勝
には届かなかった。しかし連勝記録も64年8月27日から、9月6日にかけて9連勝等も
あり強かったと言える。

それでも何とか左記にある通り67年まで水原監督が在任中はAクラスを保っていたのである。
68年には東急OBで西鉄の優勝に貢献した大下弘を監督に迎えるのだった。

大下弘には奇策とも言える「三無し主義」をオーナーから伝授され驚かせた。

 いわゆるサイン無し、門限無し、罰金無しであつたがこの申し出を大下が受け入れた為、チームも最下位を低迷して大下弘はシーズン途中で
休養となり、後を継いだ飯島滋弥監督がチームを引っ張ったが、6位から脱する事にはならなかった。

  前に戻るが、Aクラスを持続させていながら優勝争を出来ないのは、本格的な補強が出来ず、オーナーの金銭的感覚と本業の映画産業の
低迷化で野球まで手が回らないのが実情だった。しかし当時のキャッチフレーズ「映画は東映・野球も東映」はあまりにも有名で、
大川オーナーの野球に対する思い入れを示す一例である。

  監督を金銭的な事から交代させ、後任の監督も途中休養でシーズン終わってみれば最下位で名将水原監督の解雇は惜しまれて成らない。
その後はAクラスに復帰せずBクラスに定着で張本、大杉、高橋直樹など実力者が居ながらのチーム不振は親会社の力の入れ方の
欠如と言われても仕方ない面がある。

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