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Fsの歴史 (東映から日拓へ)
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今は、もうありませんがロッテの本拠地千住にあった、東京球場でフライヤーズが現在も破られていない記録を打ち立てた。
注1
1966年8月20日
1イニング11点
シート 先攻 1回 1回
(1) (5) 西園寺 四球 三犠バ
(2) (4) 青野 右安 右安1点
(3) (9) 毒島 左安1点 四球
(4) (7) 張本 四球 右線2BH3点
(5) (3) ラーカー 捕邪飛 右越2BH1点
(6) (8) 中安2点 投ゴ
(7) (6) ジーマ 中安1点
(8) (2) 種茂 右安1点
(9) (1) 田中 投犠バE1点
西園寺四球出塁、青野右安で1・3塁、から毒島の左安で先制から始まり、ラーカーは倒れたが、
白、ジーマーの連打で4点目。ロッテの成田をKOした。救援の辻野に対しても容赦なく襲いかかり
種茂が右前安、田中が投バ・スクイズこれがエラーを誘い、更に西園寺が三犠バ、青野1回二打席目が右タイムリー
毒島四球と、張本、ラーカー連続二塁打で4点の計11点目。白が投ゴでチェンジになったが、
1イニング打者15人、11点の記録を打ち立て、この日は(5−14)で大勝した。(誤記訂正21/9/14)

注2
5人連続ホームラン
その東映が最後に輝いたのは1971年5月連敗を重ね、
対ロッテで9回まで6−2とリードされ10連敗かと思われたが相手ミスに乗じ同点とする。
延長に入って二死満塁の場面で作道丞が満塁HRの同点。
続く大下剛史、大橋穣、張本、大杉の5人連続アーチが飛び出した。
結果は6-10で逆転勝利。今もなお破られない大記録となった。


ロッテの本拠地・東京球場
この球場は、当時では珍しいオレンジがかった照明で別名「ひかりの球場」とも呼ばれていた。

この付近にはお化け煙突で有名だった、観る角度で1本になったり、2本、3本、4本と変わり、この球場と共に無くなってしまったのは寂しい限り。




荒川区南千住6丁目45 足立区千住桜木町35番地

その後もチーム事情は好転せず、71年7月最高のバックボーンだった大川博オーナーが肝硬変で亡くなった。
 当時の葬儀の模様など一般紙の社会面やスポーツ面に大きく取り上げられた。

  大川博亡き後は身売話が絶えなかったが、ついに72年1月東映フライヤーズは日拓ホームに球団譲渡し、19年の長い球団史に幕を閉じた。
1972年(昭和47年)チーム名 東映フライヤーズ
成績 4位 63勝61敗6分 勝率 .508 監督 田宮 謙次郎

順位 チーム 試合数 勝利 敗戦 引分 勝率
優勝 阪 急 130 80 48 .625 -
2位 近 鉄 130 64 60 ,516 14.0
3位 南 海 130 65 61 ,515 14.0 
4位 東 映 130 63 61 ,508 15.0
5位 ロッテ 130 59 68 ,465 20.5
6位 西 鉄 130 47 80 ,370 32.5
1973年(昭和48年)  チーム名 日拓ホームフライヤーズ
成績 5位 55勝69敗6分 勝率 .444 監督 田宮 謙次郎
                           土橋  正幸

順位 チーム 試合数 引分 勝率 前後
優勝 南 海 130 68 58 ,540 1位3位 
2位 阪 急 130 77 48 ,616 3位1位
3位 ロッテ 130 70 49 11 ,588 2位2位
4位 太平洋 130 59 64 ,480 4位5位
5位 日 拓 130 55 69 ,444 5位4位
6位 近 鉄 130 42 83 ,336 6位6位

東映フライヤーズを引き継いだ(日拓ホーム)日拓ホームフライヤーズは10ヶ月後に日本ハムに
“転売”したのだった世間はビックリすると共に見識のなさを嘆いた。

  この、“転売”が引き金となり04年度の球界再編問題で、新規参入球団の60億円ともいわれる
参加費が問題になり大きな議論の種になった。

  個性豊かなフライヤーズの名は日本ハム球団誕生で球界から消えてしまった。
水原監督が指揮を取っていればオーナーは変わっても東映フライヤーズは健在だつたかも知れない。
惜別のの念がある惜しい球団だった。

  (文中敬称略)

  参考資料画像  
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晩年の後楽園球場 
  ここで日拓フライヤーズ闘うはずが10ヶ月で撤退
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白木義一郎(1頁注B) 46年セネタース 47〜51年まで東急
  52年阪急を経て参議院議員になる 在籍5年の平均防御率3.0
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白仁天、彼も暴れん坊メンバーの一人である、有名な
乱闘では露崎球審に馬乗りになって退場処分を食っている
ポジションは投手以外はどこでもこなした。
西園寺昭夫、52年入団1番から3番までを打ち、62年には水原監督の下優勝に貢献「暴れん坊打線」に名を連ねている
(白と同じ背番号だが在籍時期が違う)
 

東急のマーク(昭和48年4月18日発行50年史より)
62年の優勝パレード(左から種茂・岩下・青野選手) 1頁の大下弘選手、胸のマークには丸い輪は
   ついていない  
(参考のために表示)



この、東急電鉄並びに元東映球団などとは直接関係ありません。 資料、記録などはベースボールマガジン社、並びに東急史、東映史及び元東映球団フロント幹部OBなどの方々の話を元に構成しました。

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3ページにわたっての東急・東映、history 完成間近ですが文訂や写真提供頂いたのも掲載しますので  今しばらくお待ちください。

04/12/3 東京ドームホテルにおいて北海道日本ハムファイターズ主催のOB会総会懇親会が行われた。 懐かしいあの顔、この人で賑わった。選手だけでなくフロントOBの方々も駆けつけてくれました。(その模様はここ)

参考文献  東急史・東映史・ベースボールマガジン社、及び(元東映球団幹部談)
                                    (編集中に付き、記事、画像の挿入がまだあります)